わが家の年末恒例イベントといえば、餅つきだ。夫の生家で四〇年やっていた行事を引き継いで一〇年ほど。
ひと頃は二十キロのもち米を搗いていたけれど、冬至が過ぎた時期とはいえまだまだ日の落ちるのが早く、のんびりしていると搗き終える頃には暗くなってしまう。で、今年は十キロに減らしたところ、具合よく午後の一時過ぎには片付けまで済んだ。うん、このくらいが宴会込みの餅つきにはちょうどいい、次回からはこれで行きましょ!
でも、なにしろ搗き立てのお餅は、本当に美味しいのだ。それがあるので、なかなか餅つきはやめられない。煮あげたあんこや念入りにすりつぶしたクルミあんにまぶして頬張り、お酒をひと口。そのあと今度は納豆や大根おろしで口直し。で、また甘い餅、とつい食べ過ぎてしまう。力餅という言葉通り、食べるとエネルギーが湧いてくる気がするのだから、仕方ない。
考えてみれば、お餅くらい冬至にふさわしい食べ物はない。冬至は、北半球では昼がもっとも短い、すなわち太陽がもっとも「弱る」日だ。そして、冬至を境に再び太陽は「生き返る」。古来この時期に太陽を祀り、太陽の再生とともにやってくる新年(冬至は、多くの文化において、新年の始まりとされていた)を祝い、その年の豊穣を願う風習=冬至祭が、洋の東西を問わず存在する。クリスマスだって、ルーツをたどれば冬至祭だし、日本で言えば新嘗祭がそれに当たる。
新嘗祭は、今では太陽暦の十一月二十三日に固定されているが、もとの陰暦では冬至の頃に催されていた儀式である。天皇が新穀を太陽神・天照大御神をはじめ天の神々に捧げ、自らもこれを食べて、その年の収穫に感謝し、同時に来たる年の豊作を祈念する。これは、まさに冬至祭そのもの。だから、冬至の頃に新しい糯米を、皆で力を合わせて搗いて、盛大にいただくというのは、地球を生かしている太陽のエネルギーを分けてもらって、来年もがんばりましょう、と願う庶民の冬至祭なのだ。と、ちょっと大きなことを言ったのは、決して食べ過ぎの自己弁護ではありません。