夏休みが終わる間際になってやっと宿題に手をつける、なんていうのは遠い昔の記憶だが、今でも夏の終わりにはなにかやり残した「宿題」がないかとそわそわすることがある。
やりのこしたこと…そういえば、今年はまだ桃をいただいてなかったではないか。
桃の季節は短い。今年も桃の季節がやってきたなぁ、暑さが少し和らいでからいただこうかしらなんて思っていると、もう時期を終えていたりする。
世界中で愛されている桃だが、原産地は中国だ。中国生まれの桃は、シルクロードを渡って西へ西へと旅をし、紀元前1世紀頃にペルシャに渡り、それからヨーロッパへとたどり着いたらしい。古代ローマの人々は、ペルシャ(Persia)からやってきた芳しいこの果物を「ペルシアの林檎」(malum persicum)と呼んだ。現在も桃を英語でPeach、そしてフランス語でpêcheというのは、ローマの人々が桃はペルシャの果物だと考えていたことに由来している。
日本にはもちろん、中国から伝わり、日本神話でもおなじみだ。イザナギノミコトがあの世から逃げ帰ってくるとき、追いかけてくる常世の軍勢に投げつけたのが桃の実で、桃には邪気をはらう霊力があるとされてきた。原産地の中国でも、邪気払いや不老長寿の植物として親しまれ、日本の中華料理店でもよく見かける桃をかたどったお饅頭は祝い事には欠かせない一品となっている。しかし、この桃の実、実は邪気払いや不老長寿のためだけではなく、愛のしるしとして紀元前の中国では大切にされていたという。「私はあなたを愛しています」という言葉の代わりに桃の実を贈る習慣があったのだとか。なんてロマンチックで多機能な果物なのだろう。
さて、今年のやり残した宿題をしなければ、ということで名残の桃でフランス菓子の古典的氷菓「ピーチメルバ」をつくる。19世紀末、フランスが誇るグランシェフ、かのエスコフィエが、ロンドン・サヴォイホテルの料理長を務めていた頃、ワグナーの歌劇「ローエングリン」に感激して、主演のオペラ歌手ネリーメルバに捧げたとされるものだ。エスコフィエのオリジナルに習って、バニラアイスクリームに、シロップで煮た桃をのせ、真っ赤なフランボワーズのソースをかけ、それからローストアーモンドをパラリ。深紅に染まった桃を眺めていると、もしかしたらイザナギノミコトは邪気払いのためではなく、亡き妻への最後の愛の言葉として桃を投げたのはないかしら、なんて乙女ちっくな気分になるのも、きっと多機能な果物・桃のなせるワザなのかも。